出産した赤ちゃんに発覚した難病「なんでうちの子なんだろう…」|耳が聞こえなくたって#3
全国の難聴の未就学児の教育支援や親のカウンセリング事業行っている『デフサポ』代表の牧野友香子さんは、自身が生まれつき重度の聴覚障害者で、難病の長女と次女を育てる母でもあります。
そんな牧野さんの前向きなマインドについて、著書『耳が聞こえなくたって 聴力0の世界で見つけた私らしい生き方』(KADOKAWA)よりシリーズでお届けします。
これまでの幼少期、高校時代のエピソードに続き、今回は妊娠・出産時のお話。“自分から猛アタック”して付き合った現在のパートナーと23歳で結婚した牧野さん。その後授かった赤ちゃんに難病がわかり――。
妊娠8カ月目のエコー検査で初めて言われたこと
実は私、妊娠に気づくのが遅かったんです。
結婚して約1年が経ったある日、歯医者で「そろそろ親知らずを抜かないと」と言われました。抜く前に、「ちなみに、妊娠してませんよね?」と先生。
「抜歯後に腫れたり痛みが出たりしたら、痛み止めや抗生剤を飲むことになるから、念のための確認です」とのこと。
結婚していたにもかかわらず、そう言われて初めて妊娠のことに思い至りました。
「さすがにしてないと思うけどな〜。でも、そういえば生理が来ていないかも」と言いながら、一応妊娠検査薬を買って使ってみたら……。
「えっ? 陽性?? これ陽性だよね⁉」
その時は、うれしいよりもビックリが勝まさっていて、とにかく急いで産婦人科へ。
すると、まさかのすでに妊娠4カ月であることが判明。
「えー‼ ホントに、今までまったく気づかなかったの? 生理来なかったでしょ⁉」(もともと、生理不順でした)。
と、産婦人科の先生にはあきれられるやら怒られるやら。いきなりの妊娠判明だったので、病院探しや出産への準備でバタバタの日々が続き、エコーで写真を見た時にようやく「赤ちゃん、いるんだなあ〜」と実感できました。
その後、8カ月目に入ったころに「赤ちゃんに何かあるかも」と言われ、急遽大学病院に転院。
その病院は当時の家から遠く、車で40分くらいはかかります。電車やバスを使わないと行けない場所で、当時運転免許のなかった私は、緊急事態になったらタクシーで向かうしかありません。
そこで、はたと思い至りました。電話でタクシーを呼べないやん! と。
「もし、家に1人でいる時に陣痛が来たらどうしよう」
不安が募りました。それだけじゃなく、ただでさえ耳が聞こえない私。子どもを産むことも、育てることも不安なのに、まさかの子どもに何かあるかもしれないと言われ、落ち込む毎日でした。
みんなが幸せそうに過ごしている妊娠期間は、私にとっては全然楽しくなくて。
ベビー用品の買い物にも行く気分になれないし、気持ちが沈むばかり。
その上、精密検査で入院した時も子どもに何かあるかどうかは「五分五分」と言われていましたし、心配の尽きない妊婦生活。私としては、とにかく、何事もなく生まれてくれるのを祈るばかりでした。
ベテランの助産師さんのおかげで出産は順調!
病院では、聞こえない私に、出産に際してどんなサポートをしたらいいか?と聞いてくれました。いろいろ考えたのですが、私も出産は初めてですし、どんなことが起こるかよくわからないので、「口を見せて話すのを徹底してもらえたらありがたいです!」と答えました。
大学病院だったので、緊急性の高い妊婦さんを何人も見ているからか、聞こえないこともそれほど心配せず、なんとかなるよ! というスタンスでした。
「耳が聞こえてても、パニックで言うこと聞いてないお母さんとかたくさんいるんですよ。大丈夫です〜!」
と言われて、「たしかに、そういう方もいそうやなあ」とちょっと安心。
痛みに弱いから、指示を書いた紙を見せられてもパニックで読めないかも……なんて思っていたので、緊張してドキドキはしていましたが、看護師さんや助産師さんたちが、
「ま、なんとかなるんじゃない?」
「聞こえないこととか、気にしなくても大丈夫」
と、どーんと構えていてくださったので、心強かったです。
いざ出産となったら、意外と冷静な自分に驚きました。もちろん痛みはものすごくありましたけど、助産師さんとずっと普通に会話をしてましたし、夫ともなんだかんだ会話して、陣痛の瞬間に「いたたたたた……」みたいな。
「はい、息を逃して」
「えー!!! もういきみたいんだけど‼」
「まだダメ〜! はい! 今‼」という感じで口を見ながら会話もできましたし、お産自体はけっこう順調でした。しかも、病院に着いてすぐ! 生まれました。
お産はいろいろな形があると思うので、心配事をなるべく最小限にできるように、どんなふうにサポートしてもらったら安心できるか、自分にとって意思疎通がしやすい方法を確保しておくのは、安心して出産するためには必要かもしれません。
「育てられないかも」と言った私を支えたことば
長女を産んですぐ見た目でもわかったし、看護師さんとドクターがバタバタした雰囲気で、ちょっと抱っこしたらすぐに別室に連れていかれたので、「あ、この子病気あるな」と感じたんです。
ただ、珍しい病気なので、具体的にどんな病気なのかがなかなかわからなくて。
複数の診療科に行って、いろんな診察を受けるための書類に大量にサインをした覚えがあります。
入院中なんて、ずーっと携帯で朝から夜中まで「骨が短い」「低身長」「難病」といろんなことばで検索したりして、げっそりして。正直、出産の喜びなんてなくて、「なんでうちの子なんだろう……」って毎日泣き崩れていました。
育てられるのかな、どんな病気なんだろうか、私たちも子どもの未来もどうなるんだろう……というのがずっと頭にありました。
子どもはNICU(新生児集中治療室)に入院していて、私は先に退院し、ボロボロのメンタルでバスと電車を乗り継いで病院まで母乳を届けに行っていたんですよね。
ドーナツクッションを持ってバスに乗って、お股も痛いし、体もしんどいし、精神的にも肉体的にもこんなにつらいことって、これまでもこの先もない気がします。
皆が子どものかわいい写真とかをSNSに上げているのを見て、「なんで私ばっかりこんな苦労があるの! 私にはこの子を育てられない、育てたくない!」とさえ思いました。本当はそんなこと思っちゃいけないって、理性ではわかっているんです。
でも、心から受け入れられる未来が来るなんて思えなかった。
私自身、耳が聞こえなくても、努力したり工夫したりしながら前向きに楽しく過ごせていたのに、どうして私にばっかりこんな試練があるんだろう……。
周りの人たちは耳も聞こえて、苦労もせずに健康な子どもを産んでいて幸せそう。
楽しく子どもを育てる、そんな当たり前の幸せすら、自分のもとにはやって来ないのか……。そして、「我が子を育てたくない」って思うなんて、私は人としてありえないのかも……。
人として、母としてだめな人間なんだ……と、絶望の淵にいました。
そんな私を救ったのは、母と夫のことばでした。
夫は、泣きごとを言う私にずっと寄り添ってくれ、
「子どもももちろん大事だけど、ユカコのことが何より大事だから、どんな選択をしてもいいよ。一般的に非難される選択だったとしても、俺はそれを最大限尊重するし、一緒に決めよう」
と言ってくれました。
母は、
「その気持ちわかるよ。お母さんまだ元気やしさ、ユカコが育てられへんかったら私が育ててあげる。私、ユカコで障害児2人目やからさ、大丈夫よ。泣いてもいいねん。育てられない、そういうふうに思ったっていいねんよ。そんなふうに思うなんて母親失格とか、自分を責めなくていいねん」
と。
そんなふうに夫と母が私を受け止めてくれ、最悪の時の逃げ場を作ってくれたことで、「やれるところまでやってみよう!」と思えました。こんなことばをかけてくれる2人がいるなんて、めちゃくちゃ恵まれていたと思います。
もしこの時、
「大丈夫!頑張って!」
とか、
「あなただから大丈夫よ。神様が選んだんだし頑張れるよ!」
と言われていたら、心が折れていたかもしれません。
落ち込んだり前向きになったりの波があった日々ですが、6カ月が過ぎ、1歳を過ぎると、だんだん意思疎通もできるようになりました。すると、我が子がとってもかわいくなってきて、今ではもう目の中に入れても痛くないくらい娘のことを溺愛しています(かなり親バカです)。
でも、あのどん底は、経験した人にしかわからない闇なんだろうなと思っています。
今でこそ、こうやって笑って話していますが、あの時は、自分が笑いながら子育てをしている未来なんてまったく見えず、つらくてつらくてマイナスのループに入る毎日でした。
こういう時の親のメンタルケアをしてくれる場所が、日本にはまだまだ少ないなあと感じています。
障害児・難病児を持った親、みんながみんなその事実をすぐに受け入れられるわけでもないし、綺麗事では済まない現実もあると痛感した出来事でした。
この時の気持ちは、私の人生において一番ショックなことだったと思うし、この先きっと、これよりどん底に感じる出来事は、なかなか、そう起きないんじゃないかなと思うと、この先どんなことが待ち受けていても、命ある限りなんとかできるな!とも思っています。
先が見えず、してはいけないことだらけで途方に暮れる
当時の私がしんどいと思っていたことの1つに、「どうなるかの見通しが立たないこと」がありました。
結果として長女は50万人に1人と言われる骨の難病だったのですが、あまりに症例が少なすぎて情報がまったくないんですよね……。ネットで調べても論文を見ても、全然出てこない。
「この子は歩くんだろうか?小学校に行けるようになるのかな?ことばは話すの?」といったことから、「知的な面や、運動発達はどうなるの?」という不安。
半年先、1年先、5年先、10年先の見通しがまったく立たず、どうなるかわからないというのがつらかったです。
週に3〜4回は病院に通っていて、このままずっと病院通いが続くのかというのも心配で、途方に暮れていました(今となっては、「大丈夫! 8年後にはだいぶ落ち着くから!」と、あのころの私に言ってあげたいです)。
しかも、難病がわかってすぐくらいの時に首の脊髄狭窄が見つかって、「してはいけないこと」をたくさん言われたんですよね。
「首に、ちょっとでも刺激を与えたら本当に首から下が全部麻痺して動かなくなるからね!!! 抱っこをする時もとにかく首に刺激を与えないように本当に気をつけて! あと、抱っこ紐とかだめよ! 首に負担かかるからね」
と。
でも、赤ちゃんってそもそも抱っこすることがほとんどじゃないですか⁉なのに抱っこする時に首をとにかく気をつけてってどういうこと〜‼ と思いながら、毎日ドキドキして横に抱っこして、神経をすり減らしながら生活していました。
そうそう、1回大事件がありました。
生後3カ月くらいだったかな……。眠くて眠くて、私がソファーに長女を置いたまま、隣で少し寝てしまったんですよね。そのころはまだ寝返りも打てないので安心していたのですが、たまたま上にずりずり行ってしまったのか、ソファーから落ちたんです!
ごん! という衝撃を感じた瞬間、真っ青になって起きました。
もう、あの時は生きた心地がしませんでした。手や足は動く⁉目は合う⁉と確認して、手足が動いたことで「本当によかった……」と。
そして、慌てて病院に連絡。ドクターには「えええ!!!! ソファーから落ちたの⁉ こわっ‼ 結果なんともなかったのは奇跡だよ! 次から絶対気をつけてね!」と、めちゃくちゃ怒られたっけ。
そんな長女も生後4カ月で首の手術をして、無事に成功し、ひと安心。
とはいえ、首の骨を削ったので、今でも不安定さは少し残っていますが、日常生活には支障がなくなりました。
これが長女の人生1回目のかなり大きな手術でした。