「お母さんのために出来ることは何も無い」と思っていた麒麟・田村裕さんに響いた恩師の言葉『ホームレスパパ #5』
麒麟の田村裕さんが、学生時代の恩師にかけられた、忘れられない言葉とは。
10歳と8歳の女の子と、4歳の男の子を夫婦で育てる田村さんが綴った新刊『ホームレスパパ、格差を乗り越える 何も変わらなかったから考え方を変えた』(KADOKAWA)から一部をお届け。
幼少期に母を亡くしている田村さん。第五回は、母の死を実感して投げやりになった思春期、恩師からもらった大切な言葉についてです。
恩師に教えてもらった言葉「亡くなってからでも出来る親孝行がある」
これは拙著『ホームレス中学生』にも書きましたが、小学生の時に母親が他界して、そのことを受け止めきれず、いつか母親が帰ってくるかも知れないと、無謀で幼稚な現実逃避をしていました。
中学生になり、やっと現実を知り、母親にもう会えないことを自覚するとやる気を失い、生きる気力が湧かなくなりました。
高校生になっても、いつ死んでもいいやと投げやりに生きている僕。
恩師の目にどう映ったのかもはや確認する術はありませんが、たまたま放課後の教室に一人で居ると、恩師が話しかけてきてくれて、最終的に「手紙を書いて来る」と言いました。
あの時あの方に出会っていなければ、僕の人生はどうなっていたのかと思います。
もしかしたら、今も下を向いて生きていたかも知れません。
その人は国語の教師で、とても言葉を大切にしていました。そして五人の子供を育てる母親でもありました。その人は僕(だけではありませんが)と接する時に、教師と生徒ではなく、大人と子供でもなく、人と人として接してくれました。子供ながらにこんな大人も居るんだとびっくりしたのを覚えています。
その恩師の手紙が、僕の人生の価値観を根底から覆してくれました。
その手紙に書かれていた言葉。
「亡くなってからでも出来る親孝行がある」
きっと田村君のお母さんは、今も田村君のことを見ている。
ずっと心配でずっと見守っている。
その田村君が生きる目的が無いと言えばお母さんは悲しむと思う。
前を向き、人生を満喫し、産んでくれてありがとうと言える人生を送る。
それこそが今からでも出来る最高の親孝行だと思う。
と書かれていました。
衝撃が走りました。もうお母さんには会えない。お母さんのために出来ることは何も無いと思っていたので。今からでもお母さんのために出来ることがあるとわかった瞬間から、生きたいと素直に思えました。誰よりも人生を満喫して、いつか最期を迎えた時に、お母さんに会えたら感謝の言葉を伝えるんだと決めました。
誰よりも濃くて大きい「ありがとう」を伝えたい。
自分が何年生きられるかはわかりませんが、自分の人生の全てを、1分1秒を満喫したいです。
辛いこともたくさん起こるのが人生ですが、それも含めて乗り越えて行きたい。
今はそう思って生きています。
麒麟 田村裕さん/芸人
1979年生まれ。大阪府出身。1999年、川島明さんと共にお笑いコンビ・麒麟を結成。2001年に『第1回M-1グランプリ』で決勝に進出し、2003年から2007年まで『M-1グランプリ』決勝戦に連続出場。2007年、自伝的小説『ホームレス中学生』(ワニブックス)がミリオンセラーに。現在は麒麟としてバラエティ番組などに出演するほか、俳優としても幅広く活躍。芸能界を代表するバスケ通で、関西を中心にバスケットボール教室をプロデュースしている。2011年に一般女性と結婚、10歳と8歳の女の子、4歳の男の子のパパ。
Instagram@hiroshi9393
YouTube 麒麟田村のバスケでババババーン!
(写真:本人提供 構成:マイナビ子育て編集部)
※本記事は、『ホームレスパパ、格差を乗り越える 何も変わらなかったから考え方を変えた』著:田村裕/KADOKAWA より抜粋・再編集して作成しました。