「アナウンス部長をめざしていた」産後2ヶ月で番組復帰、母になって直面した現実/豊崎由里絵さん【1】
MBS(毎日放送)のアナウンサーとしてキャリアを重ねていた豊崎由里絵さん。仕事が最も楽しくなったタイミングでの妊娠、出産、産後2ヶ月半での職場復帰——その後に待っていたのは、「これまでと同じようには働けない」という現実と、育児と仕事のどちらにも100%で向き合えない自分への葛藤でした。
■結婚のきっかけはパートナーの「悪性リンパ腫」だった
――アナウンサーとして働き始めた当時、どのような将来像を描いていましたか。
豊崎由里絵さん(以下、豊崎) ゆくゆくはアナウンス部長になってやるぞと思っていました。ずっと会社にいるつもりでしたし、会社員として社内で「上を目指す」というのが一番自然な未来の描き方でした。当時は会社員人生しか思い描いていなかったですね。
――結婚や出産については、若いときはどのように考えていましたか。
豊崎 それこそ35歳くらいで結婚、出産というイメージで。それまでは仕事に邁進したいという気持ちが強かったです。
――実際にはその想定より早く、20代でMBS社員の男性とご結婚されました。
豊崎 当時交際中だった彼が――今は夫ですが、悪性リンパ腫に罹患していることがわかったんです。そのころの私は「結婚するならこの人だ」と思っていましたが、先ほど話したように仕事を頑張りたかったので「結婚するのは今じゃない」と思っていました。ただ、「結婚っていつでもできるものじゃないんだ。命がないとできない」と気づいて、早める選択をしました。もし病気がなければ、そのタイミングではなかったかもしれません。
――大切な人が重い病気にかかっているとわかって、豊崎さん自身もメンタル面で負担があったのでは。
豊崎 すごくありました。あるとき、東京での仕事のために新幹線に乗った瞬間から、涙が止まらなくなってしまって。新大阪駅から東京駅に着くまでずっと泣いていました。
その後も夜中に自分の叫び声で飛び起きたり、夜尿を経験したり、自分でもびっくりするような症状が出て、心療内科で自律神経失調症と診断されました。
――会社には相談されていなかったのでしょうか。
豊崎 言えなかったですね。今思えば、言えばよかったんだと思います。でも当時は、仕事を頑張りたいという気持ちと、彼と交際していることを周囲に内緒にしていた状況もあって、誰かに相談することもできず、自分の中でも処理しきれないまま抱え続けていました。夫が抗がん剤治療を終えて仕事に復帰し、状態が良くなるにつれて、私の症状もどんどん良くなっていきました。
■第8希望の保育園に預け、産後2ヶ月半で仕事へ
――その後、結婚して第一子の妊娠がわかります。このときはまだ、アナウンス部長になりたかったですか。
豊崎 なりたかったです。だからキャリアを中断させることには戸惑いがありました。それだけ仕事が楽しかったんですよね。私だけじゃなくみなさんもそうだと思うのですが、30歳前後って、ようやく自分らしい仕事のやり方が見えてきて、「自分がここにいる意味がある」と思えるタイミング。そのときに産休・育休に入るんだなと思うと、少し困惑しました。
――出産後は2ヶ月半で職場復帰されています。
豊崎 相当早かったですよね。実は産休に入る前に、4月から始まる新しい番組への出演を打診されていて。会社からは「無理しなくていい」と言われましたが、自分としてはどうしても挑戦したい気持ちが強かったんです。
――保活はスムーズでしたか?
豊崎 第12希望まで申込書に書いて、第8希望のところには入れました。ただ保育園が遠くて、家から会社までは電車で10分なのですが、会社とは反対方向の電車に乗って駅から15分歩いて保育園に預けて、お迎えも同様で……送迎と出社で片道1時間かかりました。でも、保育園に入れただけありがたいって思わなきゃ、っていう感じでしたね。
――実家や義実家のサポートはありましたか?
豊崎 どちらもそんなに気軽に我が家に来られる距離ではないのであまり頼れず、仕事を抜けられないときはシッターさんをお願いしていました。
■仕事も家族も大切なのに…耐え難い罪悪感に襲われて
――復帰後、仕事と育児を両立する中で、考えていたことは。
豊崎 当時、週2で出演していた番組は生放送で、朝10時に出社して会議やリハーサルをして夕方から本番、夜7時に終わります。会社を出るのは8時過ぎになるので、その日は保育園のお迎えをシッターさんにお願いしていました。帰宅してシッターさんとバトンタッチするのですが、私はしばしば泣いてしまって。
今振り返ると、泣いていたのは私だけなんですけど。子どもはケロっとしていて、保育園でもシッターさんといるときも楽しそうにしているのに。罪悪感。そう、罪悪感が大きかったですね。
――その罪悪感、すごくわかります。
豊崎 仕事も育児もどちらも中途半端で、子どもと一緒にいると「なんでもっと一緒にいてあげられないんだろう」と思うし、職場に行くと「なんでもっと仕事をできないんだろう」と思う。泣きながら「ごめんね」と思っていました。どちらも100、むしろ200でやりたいのに、できない自分にすごくイライラしていました。
――仕事面でも出産前とは違う歯がゆさを感じることはありましたか。
豊崎 たくさんありましたね。たとえば会議中、「昨日の夜、私以外のみんなで飲み会があったんだな」と気づいたとき。もし誘ってもらっても行くことはできないし、みんなも気を遣ってくれているのですが、子どもを生む前なら自分もそこにいただろうと思うと、すごく寂しく思っちゃったんですよね。
独身時代はがむしゃらに働いてきたけれど、もう同じようにはできないんだな。これからは、今まで積み上げてきたものとは別のものを積み上げなきゃいけないんだな。自分で選んだことですしどうしようもないことなのはわかっているんですけど、寂しさや悲しさを覚えました。
――そのとき、「退社」という選択肢が現実味を帯びてきたのでしょうか。
豊崎 そうですね。このまま続けるか、違う道に行くかを考え始めました。
――豊崎さんは、会社員時代に保育士資格も取得されているんですよね。
豊崎 まだ結婚する前に、働きながら学んで保育士資格を取得しました。そう、だから産後に「保育園を会社に作れませんか」と社長に提案したことがあります。子どもを会社の託児所に連れてきて、授乳して、また仕事に戻るという働き方ができたらいいなと思ったんです。ほかにも、子どもが熱を出したときに社内の空いている楽屋でシッターさんに自費で見てもらうことなども相談しましたが、制度上難しいという結論でした。企業としては正しい判断だとは思うし納得せざるを得ないのですが、現実の解決にはならないもどかしさがありましたね。
――パートナーもテレビ局員ということで忙しく、保育園の送迎や病児の看病で仕事を休むことなどは難しかったですか。
豊崎 難しかったですね。もちろん今はそういう働き方をしている男性だってたくさんいると思いますが、当時、たとえば「子どもが熱を出しました」と保育園から電話がかかってきて、夫にお迎えを頼んだとしたら周囲から「え、豊崎が行くんじゃないの⁉ なんで?」とびっくりされてしまうような感じもありました。
実際、夫に「熱出ちゃったって」と連絡したら「俺、今日はお迎え無理やねんな」と言われて「私も無理やねん!」と喧嘩になることも。この喧嘩、すごく不毛だなっていつも思っていました。
――そうしたことの積み重ねが、退社という決断につながった。
豊崎 退社という選択肢が現実味を帯びてきましたね。最終的に、制度の中でどうするかではなくて、「自分がどうするか」を大事にしようと考えて、会社を辞めてフリーになることを決めました。
「続けるか、辞めるか」——。答えの出ないまま揺れ続けた末に、豊崎さんはひとつの決断を下します。しかしそれはキャリアを手放すことではなく、“働き方そのものを問い直すこと”でもありました。
後編では、会社を離れたあとに見えてきた子育ての課題と、新たな一歩を踏み出すまでの道のりを伺います。
豊崎由里絵(とよさき・ゆりえ)
1988年生まれ。青山学院大学卒業後、2013年に毎日放送(MBS)にアナウンサーとして入社。情報番組やバラエティなどで活躍し、順調にキャリアを築く。結婚・出産を経て、仕事と育児の両立に向き合う中で働き方を見つめ直し、2019年に退社。2025年、東京都世田谷区桜新町に子育てを地域で支え合う拠点「シェア実家」を立ち上げた。
(取材・文 マイナビ子育て/写真はすべて豊崎由里絵さん提供)
