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2026年08月29日 07:11

「よかれと思って」が子どもの言葉を奪う。我が子を大事にする親ほどやりがちなNG行動|「ことばで伝える」ができない子どもたち #3

「こうしなさい」「あれはしちゃダメ」。子どもを思うあまり、先回りして危険や失敗を避けようとしてしまうことはありませんか? 実は、そんな親の“先回り”が、子どもの「ことばの力」を育む機会を奪っているのかもしれません。人は、予測できない体験に出会ったときこそ、自分の感情を言語化したくなると言います。

書籍『「ことばで伝える」ができない子どもたち』(著:石井 光太 /日本実業出版社)は、1,000人以上への取材をもとに、子どもたちの「ことばの力」が育ちにくくなっている現状をひも解き、家庭でできる声かけや関わり方など、子どもの「伝える力」を育むヒントをまとめた一冊です。

今回は、子どもが社会で自立して生きていくために必要な「予測不可能な体験」の重要性について、本書より一部抜粋してご紹介します。

ことばで伝える」ができない子どもたち,日本実業出版社

「予測不可能な体験」の重要性

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大人の中には、子どもに自由に自分たちで決めたことをやらせるのは高リスクだと考える人もいます。

家で好きにさせればものを壊しかねないし、外で自由にさせれば事故や犯罪に巻き込まれかねないと考える。だから、親は先回りして子どもを管理し、「これをしなさい」「これをしちゃダメ」と口を出したがる。大人がリスク要因を排除するのです。

こうした大人の姿勢は、「過干渉」と呼ばれることがあります。実はこれ、日本だけで起きている現象ではなく、先進国を中心に世界中で起きていることなのです。特にアメリカの一部地域では顕著で、親だけでなく、行政までもが子どもの管理を徹底させています。

たとえば、日本では、家の前にベビーカーに乗せた子どもを置いて親が先に荷物を置きに玄関に入る、家の隣にある公園で子どもだけで自由に遊ばせるといったことは当たり前のように行なわれています。小学生だけで電車に乗ることや、スーパーに買い物に行くこともあります。しかし、アメリカの一部の地域では、それらは「虐待案件」として子どもは保護の対象になり、親が罪に問われてしまいます。

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このように管理された子どもたちはどのように育っていくのでしょうか。

アメリカでベストセラーになった『傷つきやすいアメリカの大学生たち』(グレッグ・ルキアノフ、ジョナサン・ハイト 草思社)は、こうしたアメリカの若者を細かく研究した本です。これによれば、アメリカに蔓延する極端な過干渉=安全イズムは、子どもの行動様式を大きく変えたといいます。

子どもたちは自由を奪われたことで数多の体験を失いました。

リスクのある遊びをハラハラドキドキしながらやる体験、創造性を限界まで高めて一つのことに挑む体験、自力で物事を成し遂げることで自尊感情を得る体験がなくなったのです。

著者の分析によれば、こうした結果として彼らは大学生くらいになっても、自分の力で生きていくのが難しくなったそうです。一から十まで大人にアドバイスを求め、一人では何もできなくなり、不安症やうつ病に罹患する率が急上昇したといいます。

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考えてみれば、鳥だってずっと鳥カゴの中で飼われれば、大きくなったからといって自然に解き放たれても生きていくことはできません。それと同じことが、人間にも起きたということなのでしょう。

アメリカほどではないにしても、日本でも似たような風潮は年々強くなっています。親がよかれと思ってやっていることが、実際は子どもが社会で自立して生きていくために必要な体験を奪ってしまっているのです。

こうした社会の中で、子どもに与えるべき体験とは何なのか。あえて一言で述べれば、“予測不可能な体験”となります。

予測不可能な体験とはどのようなものでしょう。

公園で子どもだけで自由に遊ばせたとします。大人は干渉しない。すると、ほぼ確実に子どもたちは大人が「やめなさい」と言いたくなるようなことをします。

公園の外の車の行きかう道路に飛び出す、隣接する民家の塀によじ登って柿の実を採ろうとする、捨てられたゴミ袋をつついて中に何があるか調べる……。

こうした行為をすれば、子どもは日常ではあまり体験し得ない出来事に遭遇することになります。道のわきに交通事故で亡くなった人に供えられる花束を発見する、柿の木が折れて落ちる、ごみの中からウジがわいた残飯を見つける。

大人の管理する世界が「日常」だとしたら、そこから外れた世界は「非日常」です。そこに何があるかといえば、日常の常識を逸脱した予測不可能な体験です。保育学の中では「偶発性」という言葉で表されることもあります。

こうした予測不可能な体験から子どもは何を学ぶのか。社会の中で自立して生きていくための力です。

交通ルールを無視すれば本当に死ぬんだという恐怖、高いところに登るには必ず足場を確認しなければならないという警戒心、虫が発生しないようにゴミを放置してはいけないという管理能力などです。

体験しなくてもそんなことわかるはず、と思う人もいるかもしれません。しかし、実体験の中で体感的に知っているからこそ、日常の中でそれを参考に行動に移すことができるのです。それが単なる知識と、実体験の違いなのです。

意外なことに心を動かされるから言語化したくなる

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さらに、〈ことばの力〉の文脈で言えば、予測不可能な体験は子どもたちの体験の言語化や、コミュニケーションの活性化にも寄与します。

先に述べたような予測不可能な体験をした子どもたちが共通して行なうことがあります。それは、その体験を進んで言葉にすることです。

「公園の前の道で事故があったみたい。お花が供えられていたから誰か死んだのかも!」

「ねえ、G君が木に登って柿を採ろうとしたら枝が折れて地面に落ちたんだよ!」

「Hさんが公園のゴミを漁ったら、たくさんの小さな芋虫みたいなのが出てきたんだ!」

子どもなら、こうした体験をすれば、必ず家や園にもどってから、起きたことを興奮して話すでしょう。

なぜなのか。それは予測不可能な体験が、子どもの心を大きく震えさせたからです。子どもは心が震えると、その感情を言葉にしようとしたくなるのです。

ことばで伝える」ができない子どもたち,日本実業出版社
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大人であっても、事故を見たとき、有名人に遭遇したとき、宝くじに当たったときなど、予測不可能なものに出くわせば、大きく心が揺れ動き、それをすぐに人に伝えたくなるはずです。

子どももまったく同じなのです。予測不可能な体験をすれば、人は心を震わされ、その感情を言語化したくなるのです。そして、こうした体験をしている人であればあるほど、自分の感情に向きあい、それが何なのかを分析し、言葉にして人に伝えることが得意になっていくのです。

また、予測不可能な体験をすることによって、それを発端に新しい行動をしたり、新しい発想をしたりすることもあります。

子どもが柿の実を採ろうとして木に登って落ちれば、今度は枝を揺さぶったり、長い棒を使ったりして採ろうとするでしょう。ウジ虫がゴミを食べているのを見れば、他にも汚いものなら食べるのかと考えて、犬の糞や昆虫の死骸を与えてみたりするでしょう。

大人からすれば、何をやっているんだ、と呆れるようなことかもしれません。でも、こうしたことこそ、どんどんやらせるべきです。

ことばで伝える」ができない子どもたち,日本実業出版社
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ノーベル賞を受賞した世紀の発見が、研究者がいろんなことをしているうちに起きた想定外の失敗から生まれたアイデアだったとか、ビジネスの空前のヒット商品が発案者の日々の遊びの中から偶然に生まれたアイデアだったということは、よく耳にすることです。

このような発想力や行動力を育てるには、子どもの頃から自由にたくさんのことをさせ、予測不可能なことが起きるのを目の当たりにさせることが大切なのです。小さな頃からそれをくり返して習慣になっているからこそ、大人になったときにオリジナリティの高い発想や行動ができるようになるのです。

他方、大人が用意したことをやっている子どもはどうでしょう。

たとえば、大人が「今日はここでブランコをしなさい」と言って見守っていたとします。たとえ子どもがブランコ遊びを楽しんだとしても、急いで家に帰って嬉々として体験を語ることは稀でしょう。少なくとも予測不可能な体験をしたときと比べれば、反応は小さいはずです。

どうしてなのか。

それは、子どもにとって想定内の体験だからです。だからブランコ遊びを楽しんだとしても、天地がひっくり返るほど心が揺さぶられ、何がなんでもそれを言語化しようとしたり、新たな発想をするきっかけになったりすることがないのです。

つまり、日常の中の想定内の体験と、非日常での予測不可能な体験とでは、同じ「楽しい出来事」であっても質が大きく異なるのです。

このように考えると、子どもたちにとっての予測不可能な体験の有用性がわかるのではないでしょうか。

続きはぜひ書籍でご覧ください。

「ことばで伝える」ができない子どもたち
(2026/08/29時点)

※本記事は、『「ことばで伝える」ができない子どもたち』<著:石井 光太/日本実業出版社>より抜粋・再編集して作成しました。

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